青のくさみ「森女」遊泳0203『 地獄をも天国にせよパラダイム
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★★★ 青のくさみ「森女」遊泳0201『 糞真面目嫌う愚直の穴惑い 』w12q0903 への交心です。 ★★★
★ 青のくさみ「森女」遊泳0203w12q090503
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地獄をも天国にせよパラダイム
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花呼さん、交心ありがとうございます。
ご批判もありがとうございます。
好き嫌いというのは、個人差の強いもので、トマトが嫌いな人にどうしてと問うことないでしょうけれど、「真面目」ということには、なぜ? と問いたくなるものでしょうね。
<糞真面目万歳です!>
そういえる強さが羨ましくなります。
そう答える自分自身の糞真面目さに辟易してしまいますけれど・・・
<純老、天然、殊勝を憎む。>と一休さんは書きます。大徳寺の坊さんたちを見てきて、真面目の権化のように経本を読み、お説教をしているけれど、その坊さんたちの内実は偽善の塊だと感じてきたんです。兄弟子の養叟さんが、一休さんの批判の対象になりますけれど、それはそれはどうしてそこまでと思うほどの攻撃をするんです。『自戒集』という本にまでしますけれど、題名の通り、その攻撃はみんな徹底した自己批判にしていくんです。修行の青年時代、殺傷をしてはならないという戒めを真面目に守って、道端で蛇にあっても、ただ怖がるばかりで、危機に対応できない仲間たちに、業を煮やした一休さんは、蛇を石で殺してしまいます。破戒だと、和尚さんに言いつけますけれど、和尚さんは一休さんのその時の咄嗟の行動が禅なのだと弟子たちに説明しますが、弟子たちにはその真意がなかなか理解できないんです。マニュアル通りには生きていけないんだという現実に裸で向き合っていないんですね。マニュアルは大切だけれど、それを超えて真実を生きよ、と一休さんは行動で批判するんです。殊勝らしくマニュアル通りに生きている禅坊さんたちは、寺の外に一歩出たら、生き地獄が展開されているのに、その現実に何の行動もしない。地獄の現実は見ずに、マニュアル通りの善悪是非を、口角泡を飛ばして議論している仲間たちを、そして和尚たちを見てきたんです。そんな坊さんたちの振る舞いやお説教を抹香臭いといっているんです。これを「糞真面目」と呼んでいるんです。
命が凋んで腐るようなお説教は止めて、街に出て、人々と一緒に地獄を生きぬけ。地獄をも楽土に変える生きる力と喜びを切り拓いていけ、そういっているんです。
「くそまじめの精神」という言葉はサルトルの用語ですけれど、マニュアル通りや道徳通りや習わし通りに生きて安住している心のことです。
一休さんが叫んでいるのも、安住するな、疑え。不安から目をそらすな。現実を直視し、立ち向かえ。本来の面目に目覚めよ、と叫んでいるんです。
> 本来の面目坊が立ち姿 一目見しより恋とこそなれ 一休
自分の中のもう一人の主人公、面目坊に恋をせよ、というのが一休さんのスタンスなんです。このスタンスを貫くことを「真面目」、真の面目と呼ぶのなら、一休さんは誰よりも真面目です。誰も真似のできないくらい「糞真面目」です。
そういう意味に於いて、凡愚老仁も、<糞真面目万歳!>ですよ。
そんなパラダイムシフトがはじまっているのでしょうね。
地獄をも天国にせよパラダイム 仁
面目坊は地獄も一定
★ 。・。・゜♪゜・。・。★ そのまんま575で交心 ★ 。・。・゜♪゜・。・。★
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